26

Dec

ASCII.jp すべては世界をつなげるために ―SAPがローコード/ノーコードにコミットする理由

いまからちょうど1年前となる2021年2月、SAPはフィンランド・ヘルシンキに拠点を置くローコード/ノーコード開発ツールのスタートアップ、AppGyver(アップガイバー)を買収したことを発表した。「AppGyver Composer」といえば、数あるローコード/ノーコード開発ツールの中でもドラッグ&ドロップだけで開発できるシンプルなインタフェースとマルチプラットフォーム対応、そして個人/中小企業であればほぼ永遠に無償で利用可能という魅力的な特徴を備えていることから、世界中に多くのユーザを抱える開発プラットフォームである。

SAPファミリの一員となったあとも、個人開発者/中小企業を対象にした半永久的なフリーティア(無料利用枠)の提供は続けており、ローコード/ノーコードツールとしての人気は依然として高い。AppGyverのトップページには「You will never go back to coding. Seriously.(あなたは決してコーディングは戻ることはない。本当に)」とあり、ノーコードプラットプラットフォーマーとしての揺るぎない自信が感じられる。

AppGyverのサイト(https://www.appgyver.com/)のトップに掲げられている「You will never go back to coding. Seriously.」のメッセージ。ノーコードプラットフォームの先駆者かつトッププレーヤーとしての自信があふれている

SAPは2021年11月に開催された開発者向けカンファレンス「SAP TechEd 2021」において、このAppGyverをSAPの統合ビジネステクノロジ基盤「SAP Buiness Technology Platform(SAP BTP)」に統合することを発表。SAP BTPユーザはAppGyverのローコード/ノーコード機能をクラウドサービスとして利用することが可能になった。

SAP TechEd 2021でミュラーCTOが基調講演で発表した主要な5つのトピック。ローコード/ノーコードについては、ツールの統合に加えて無償の学習機会の提供など、SAPとしても非常に注力している分野である

以前から「SAP Ruum」などノーコードで作成可能なプロセス自動化ツールや、ローコード/ノーコードなアプローチを取り入れたブラウザベースの統合開発環境「SAP Business Application Studio(BAS)」などを提供してきたSAPだが、個人開発者に人気の高いAppGyverの統合は、SAPのローコード/ノーコードへのコミットのレベルを大きく上げる動きとして注目される。

技術カンファレンスのTechEdにおける最初のトピックが「パーパス」と「サステナビリティ」だった点に注目。「SAPの技術は世界と人々の生活を良くするためにある」と最高技術責任者が明言したことは大きい

SAPのノーコード/ローコードのメインポートフォリオ。フロントアプリ開発のAppGyver、統合開発環境のSAP BAS、RPA/ワークフロー開発のSAP Process Automation、そしてチャットボット開発の「SAP Conversational AI」がある

AppGyverのBTPへの統合はSAPに何をもたらすのか――。本稿ではSAPジャパン バイスプレジデント インダストリ&カスタマーアドバイザリ統括本部 統括本部長 織田新一氏にインタビューした内容をもとに、SAPがローコード/ノーコードへのコミットで得ようとしている世界観について見ていきたい。

SAPジャパン バイスプレジデント インダストリ&カスタマーアドバイザリ統括本部 統括本部長の織田新一氏

TechEdで発表された5つのトピックは1つの方向性を持つ

AppGyverおよびSAPのローコード/ノーコード戦略について触れる前に、織田氏はSAP TechEd 2021で発表された内容から、とくに重要な5つのトピックを挙げている。

・ローコード/ノーコードを含むアプリケーション開発の無料学習サイト「SAP Learning」(https://learning.sap.com/)・SAP BTPの無料枠モデルに「SAP HANA Cloud」「SAP Integration Suite」を追加・SAP BTPにAppGyverおよびSAP BASを統合、アプリケーション開発におけるローコード/ノーコード機能を強化・SAP S/4HANA Cloudの中でABAPによるビジネスアドイン(SAP BAdI)の実装やSAP内のデータ/APIへの直接アクセスなど、拡張性と柔軟性の高いABAP環境を提供・オンプレミスの「SAP Business Warehouse」から「SAP Data Warehouse Cloud」へと透過的にデータを移行する「SAP BWブリッジ」の提供(2022年前半に提供予定)

ASCII.jp すべては世界をつなげるために ―SAPがローコード/ノーコードにコミットする理由

これらの発表内容はいずれも個々に独立したテーマではない。今回のTechEdでイベントのホストを務めた同社CTOのユルゲン・ミュラー(Juergen Mueller)氏は、「これらの技術実装は、SAPのパーパス(世界がより良くなり、人々の生活がより向上するように、その支援を続けていく)とサステナビリティ推進を実現するもっとも重要なコンポーネントだ」と基調講演で示している。

TechEdはその名前のとおり、SAP開発者を対象にしたコミュニティイベントであり、世界中の顧客やパートナーに対してSAPの企業としてのビジョンを示す「SAPPHIRE NOW」とは発表内容やメッセージの方向性が異なる。だが今回はミュラー氏が技術の最高責任者として「SAPの技術実装は今後、パーパスとサステナビリティを両輪として進化していく」ことを最初に明言しており、SAP開発者に対しても同じ認識を共有する狙いがあるとみていいだろう。

「SAPのクラウドシフトを推進するための」ローコード/ノーコード

それでは、SAPのパーパスの実現とサステナビリティ推進にあたって、AppGyverのBTP統合を中心としたローコード/ノーコード機能の強化はどのような役割を果たすのだろうか。織田氏はまずローコード/ノーコードのニーズが高まっている背景として「圧倒的なIT人材の不足」を挙げている。

「コロナ禍に入ってからは世界中のどの企業でもデジタル化のニーズが高まっているが、その一方で対応できるIT人材は圧倒的に不足しており、人材育成も間に合っていないのが現状。もしビジネスユーザがIT部門に頼らずとも、自分自身で簡単な業務アプリケーションやプロトタイプを作成できれば、業務の生産性は大きく向上する。ローコード/ノーコードというトレンドは、デジタル化へのニーズとIT人材の圧倒的な不足という2つの相反するファクタが大きく影響している」(織田氏)

IT人材不足という状況は、SAPシステムの開発においてはより深刻である。SAPは2021年1月にSAP S/4HANA Cloudをコアにしたサービス「RISE with SAP」を発表、クラウドシフトの方向性をより鮮明に打ち出しており、オンプレミスのERPユーザに対してもS/4HANA Cloudへの移行を強力に後押ししている。しかし、既存の膨大なオンプレ資産をクラウドに移行することは容易ではなく、織田氏が指摘するように、そのニーズの大きさとは対象的にIT人材(SAP人材)は圧倒的に不足しているのが現状だ。

「専門的なITスキルをもつ人材の育成は非常に重要な課題であり、今回の発表の中に無料の学習機会の提供やフリーティアの拡充が含まれているのはそのサポートでもある。だが、人材育成には時間がかかる。その間、ビジネスユーザが“市民開発者(Citizen Developer)”として、たとえばSAPシステムから業務データを抽出して可視化するようなアプリケーションが作成できれば、業務効率を大きく上げることができるだろう。SAPのローコード/ノーコードへの取り組みは、SAPのクラウドシフトを推進し、SAPシステムをビジネスユーザが自分自身の力でより使いやすくするためのアプローチといえる」(織田氏)

ここであらためてTechEdでのローコード/ノーコードの発表内容を見ると、AppGyverおよびSAP BASをSAP BTPに統合し、さらにワークフローサービスにRPAを被せるかたちでノーコードライクに実装した「SAP Process Automation」もBTPから利用可能となっている。いずれもクラウドベースの統合プラットフォームであるSAP BTPから提供されるサービスとして実装されることに注目したい。

ミュラーCTOはSAP BTPを「インテリジェントエンタープライズ実現のためのファウンデーション(基盤)」と表現しているが、前述したRISE with SAPにおいてもBTPはコアERPであるS/4HANA Cloudを拡張し、さまざまなサービスをワンストップで開発/提供する基盤、もっといえば企業のデジタル化を推進する基盤として位置づけられている。今後、SAPアプリケーションは基本的にSAP BTPを介して拡張/連携/開発/デプロイされ、ローコード/ノーコードツールもこれに準じることになる(※注:ただしBTPを介さずに、S/4HANA Cloudの中でABAPアプリを書いたり、テーブル更新のような小規模なアップデートを行うことも可能である)。

ミュラーCTOはSAP BTPを「Foudation for the Intelligent Enterprise(インテリジェントエンタープライズ実現のための基盤)」と呼んでいる。インテリジェントエンタープライズはクラウドERP(S/4HANA)をコアにしたエンタープライズITのコンセプトで、BTPはS/4HANAとともにインテリジェントエンタープライズを支える重要なプラットフォームという位置づけである

変化に耐えうるサステナブルな社会とプラットフォームを目指して

「パンデミックに入ってから、エンドユーザは世界で起こっているさまざまな変化を非常に敏感に察知している。デジタル化に関しても同様で、“すぐに何か始めなくては”という焦りにも近い気持ちをもっている企業は多い。おそらくITベンダが考えている以上に(ユーザ企業は)デジタル化への強い思いをもっている」――。織田氏はパンデミックから2年が経過した現在でも、エンドユーザのデジタル化へのニーズは大きいことをあらためて強調する。ローコード/ノーコードへの関心の高まりも、「(サイト構築やアプリ開発などを)IT部門に依頼してただ待つだけでは、直近のビジネスニーズに間に合わない」という背景がある。

しかし、ビジネスのデジタル化というテーマにエンドユーザが単独で臨んだとしても得られる効果はそう多くない。織田氏は「サプライチェーン全体で持続可能な社会の実現をめざしていかないと、本当の意味でデジタル化の成功は難しいとSAPは考えている」と話す。たとえば現在、世界中に大きな影響を及ぼしている半導体不足は、需要と供給のバランスが大きく崩れたことに起因する。現在、主要な半導体メーカー/ファウンドリーが増産体制に入っているが、それだけでは問題は解決せず、国や社会を含めたサプライチェーン全体で取り組む必要がある。そしてサプライチェーン全体で問題に取り組むには「エンドツーエンドでつながったサステナブルな社会」の実現が同時に欠かせないという。

昨今ではバズワードとなりつつあるサステナビリティだが、日本企業でもサステナビリティに対する関心は少しずつ高まっており、CO2排出量の把握や、再生可能エネルギーの活用、プラスチックごみ削減といったアクションを一元管理するツールを導入するところも増えている。SAP自身、長年にわたりサステナビリティ経営の実践企業(Exempler)として蓄積してきたノウハウの提供を開始しており、ユーザ企業のサステナブル経営を支援するイネーブラー(Enabler)としても活動している。だが、サステナビリティの実現は企業や社会が“つながっている”ことが大前提だ。そのつながりを技術的により強固にするための発表が、今回のTechEdでの発表だったといえる。

SAPは「世界と人々の生活をより良くする」というパーパスのもと、サステナビリティな社会の実現をめざすことを掲げている。2022年は顧客企業のサステナビリティ経営を支援するイネーブラーかつ自社で実践するイグゼンプラーとして、より強力にサステナビリティを推進するとしている

「サステナビリティへのニーズも含め、データ/サービス/プラットフォーム間の接続性を高めていくことは顧客側からの強い要望であり、SAPとしてもそれに応えていきたい。ローコード/ノーコードへのアプローチもこの傾向を強く意識しており、プラットフォームとの統合度は確実に高まっている。ただし、クラウドベースである以上、変化に柔軟に対応していくためにもアーキテクチャ的には疎であることは重要なので、そのバランスをうまく取りながら進化させていきたい」(織田氏)

先進国だけでなく、新興国と比べても日本企業のデジタル化は遅れていると批判されがちだが、織田氏は「クラウドで変化に耐えられるプラットフォームが構築できると実感すれば、必ず日本企業のデジタル化は進み、日本社会全体が元気になっていくと思っている」と結んでいる。既存資産のクラウドシフト、そしてデジタル化を推進し、サプライチェーン全体のつながりを強固にしながらサステナビリティを高めていく――。ローコード/ノーコードへの取り組みは、この大きな目標をより速く、簡単に実現するための重要な布石だといえるだろう。

SAPは現在、アプリケーションやプラットフォームの統合を進めている。クラウドサービスとしてアーキテクチャ的には疎結合でありながら、ユーザサイドにはワンストップで統合されたエクスペリエンスを提供することが重要